足し算の愛と掛け算の愛の違い

足し算と掛け算、どちらかが「0」だと「0」になってしまうのは掛け算です。
私は昔から「家族の愛は足し算、恋愛の愛は掛け算」だと思っています。
それは相手も思い合っていないと恋愛は成立しないと言う私の考えがあるからかもしれません。

家族の愛は、たとえ相手が0であっても、自分の愛情をいくらでも注いでよいと思います。
そしてそれは結果的に合計した愛情が生まれることを私は期待しています。
それに反して、恋愛の愛は、相手が0であった瞬間、こちらがいくら愛情を注いでも空振りなのです。
空振りならまだいいのですが、相手の感情が自分に対してマイナスになってしまうと、合計がマイナスの愛情になってしまうのです。
ストーカーなどがその例になるかもしれません。
でも、愛情は相手の状態によって、本当に喜ばれるものから、迷惑がられるものにまで変わってしまいます。
いくら自分が同じ量の愛情をかけたとしても、相手によって結果ががらりと変わってしまう怖いものなのです。
そんな風に前から考えていた私は、家族の様な足し算の恋愛は成立するのか…とよく悩んでいました。
もちろん、答えはNOなのですが、もしも成立したとすれば、それは見返りを求めない純粋な愛情で、相手に伝えることのない愛情でなければいけないのかな、なんて思っています。
純粋な片思い、そして告白する気がゼロである様な恋愛は成立したとしても、思っている側は大変切ない愛かもしれません。
そう思うと、やはり見返りを求めない相手をも求めない愛は家族同士での愛であるのが一番いいのです。

子供の成長

独身上等と思っていた若かりし頃の自分は跡形もなく、腹周りがしゃしゃり出てきた、パフェ大好き33才男。
昨年ついに念願の長男も生まれ、上の子(女の子)は今年幼稚園に入園するので
2014年は社会的責任に加え出費も増す一方でございます。

パチスロもキャバクラ通いも夜更かしも辞め、もっぱらの楽しみはというと子供と過ごす時間へと変わりました。
浪費は美徳とカッコつけていた小さき男は包容力あふれる漢へとトランスフォームしたのです。
つまらぬほどの典型ですが我が子がこんなにも可愛いとは想定外。
そして産まれてから人格が出来ていく過程は親としての不安と興味と責任が入り混じった複雑な気持ち。
親であれば誰しも豊かな心を持った子供に育って欲しいと願うものです。
そこには見返りなんてものはなく、まさに無償の愛。
できるだけ子供と同じ時を過ごしたいと思うのはその愛故なのでしょう。
子供の言動を注意深くみていると社会というフワフワした世界を子供なりに理解し受け入れているよう。
ガソリンスタンドを見た娘(3才)が車のご飯屋さんと言ったところをみると
遠からず物事の仕組みを理解しているのかなと。
他にもスマホのロック解除やETCの差し込む向きまで、、
子供って何も教えないうちからどうやってこういった仕組みや構図を理解しているんだろうと考えたこともありましたが、
スポンジのような観察力と洞察力が抜きんでているようです。
新しいものに触れるたびにその場面に遭遇する我が子を見るのはとても楽しく幸せなことです。
そして親としてはそういった機会をなるべく多く作ってあげたい。
キラキラした子供をみる一方で大人になって何か失ってしまったのかなと思うと、
サメ肌オヤジになってしまった私ももう一度赤ちゃん並みの感受性に戻ってみたい、そう願うのでありました。

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